『文学論』
──自己本位の読み方のまとめ

長谷部 さかな 著

 夏目漱石『文学論』を十年計画で読みはじめてから早くも満八年 たちました。  なにしろ神経衰弱にして狂人と噂されたこともある天才作家の文 学論です。おそろしく難解な代物で、一度や二度読んだだけでは理 解できるはずがないと覚悟はしていたのですが、なんとかこれまで に二度通読したことにはなります。  一度目は漫然と読み、二度目は英訳を参考にしながら読みました。 三度目は残りの二年間で私なりに自己本位のまとめを意識しながら 読みたいと思います。  三度読んでも、十分に理解できるという自信はありません。その 程度の浅い理解のレベルで、まとめようとするのは無謀かもしれま せんが、まとめを意識することに意義があると思うことにしましょ う。 目次は次の通りです。   序  第一編 文学的内容の分類  第二編 文学的内容の数量変化  第三編 文学的内容の特質  第四編 文学的内容の相互関係  第五編 集合的F  文学的内容論プラス集合的F論──そして、 第一編では、「凡 そ文学的内容の形式は(F+f)なることを要す」という公式が示 されています。「Fは焦点的印象または観念を意味し、fはこれに 附着する情緒を意味す」。  まるで科学論文です。筋道を立てて考えることが苦手な読者は歯 が立ちそうもありません。  もっとも、序を読めば、何とかなりそうな気もします。本論に比 べると、序からは作者のなまなましい感情(f)が伝わってきます。 「何となく英文学に欺かれたるが如き不安の念あり」とか、「倫敦 に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間 にあつて狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営み たり」とか。  『文学論』執筆の動機や狙い所もある程度は見当がつきます。  「根本的に文学とは如何なるものぞ」という問い──これが『文 学論』の狙い所のようです。「心理的に文学は如何なる必要あつて、 この世に生れ、、発達し、頽廃するか。社会的に文学は如何なる必 要あつて、存在し、隆興し、衰滅するか」という問いかけもありま す。 しかし、「文学とは如何なるものぞ」や「文学は如何なる必要あ って存在し、衰滅するか」が『文学論』の根本的な問いだとしても、 本論を漫然と読んだだけでは、その答を見つけるのは容易なことで はありません。  文学の定義も必要もはっきりせず、何だか頼りないような気持に なります、そのようなあいまいさやためらいを吹き飛ばすかのよう な快刀乱麻の断定があります。「凡そ文学的内容の形式は(F+f) なることを要す」という法則です。 これはどういう意味か、ボンクラ頭には理解しにくいのですが、 漱石『文学論』では肝心カナメの土台だと思います。「根本的に文 学とは如何なるものぞ」という問いを解くカギは、この法則に隠さ れているような気がします。  『文学論』の序の文章は文学的でも、本論は科学的論文──とい うのが、最初に読んだときの私の印象でした。序と本論がかみあっ ていないのです。序は「凡そ文学的内容の形式は(F+f)なるこ とを要す」という公式にあてはまるが、本論は内容は文学論でも形 式は文学的内容の形式(F+f)にあてはまらないのではないか。  おそらく本論は文学を研究対象として科学的に解明しようとする 試みなのでしょう。しかし、そのうちに本論にもやはり情緒的要素 (f)がふくまれていることに気がつきました。たとえば、シェイ クスピアの戯曲やオースティンの小説やワーズワースの詩の一部な どが引用されているからです。これらの引用された小説や戯曲や詩 には情緒的要素(f)があります。  また本論の応用篇ともみなされる『吾輩は猫である』など漱石作 品には情緒的要素(f)はたっぷりふくまれている──ということ は(F+f)の法則がやはり本論にもあてはまるというリクツにな るかと思います。  もっとも、漱石自身が述べている自己評価によれば、『文学論』 は学理的閑文字であり、失敗の亡骸(なきがら)あるいは立派に建 設されないうちに地震で倒された未成市街の廃墟のようなものだそ うです(『私の個人主義』)。  このようなネガティブな自己評価にまどわされますが、それでも、 やはり『文学論』を無視してしまうわけにはいきません。漱石が 『文学論』の研究を通じ自己本位という考えを得て、それが自信に つながり、創作の方面で成功しているからです。死後百年たった今 も漱石の作品は読者に読まれています。  『吾輩は猫である』から『明暗』まで約十一年間の創作活動は 『文学論』の失敗の廃墟から生まれました。『文学論』がなければ、 おそらく創作家夏目漱石の成功もなかったでしょう。  岩波文庫版の解説者亀井俊介は、「『文学論』は、本当は無類に 面白い作品なのである」と評しています。漱石の小説と併読し、内 容を照合するなどの工夫をすれば、無類に面白い作品になるかもし れません。  『文学論』は進化途上の未定稿です。漱石は序で、文学論は未定 稿と断っています。  「既に未定稿なるが故に現代の学徒を教へて、文学の何物たるか を知らしむるの意にあらず。世のこの書を読む者、読み終わりたる 後に、何らかの問題に逢着し、何らかの疑義を提供し、あるいは書 中いへるものよりも一歩を拓きて向上に路を示すを得ば余の目的は 達したりといふべし」。  「学問の堂を作るは一朝の事にあらず、また一人の事にあらず、 われはただ自己がその建立に幾分の労力を寄附したるを、義務を果 たしたる如くに思ふのみ」。    二○一一年三月十一日、東日本大震災に見舞われました。その直 後、瓦礫の撤去を手伝いながら私の頭をふとよぎったのは、未成市 街の廃墟のような『文学論』の瓦礫撤去に参加している大勢のボラ ンティアの姿です。そして、私もまたその群にまじって、幾分の労 力を寄附し、義務を果たしたような気分にひたれるかもしれないと いう幻想にとらわれました。          (2015/04/23)

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