ことば・翻訳・そして文化
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学問は覇道!?
   2008/10/11 (土) 12:17 by 司馬拓也 No.20081011121715

 「学問に王道なし」という言葉の存在を、私が初めて知ったのはだいぶ昔の
ことで、受験生向けの英語の参考書に載っていたと記憶しています。

 さて、中国の戦国時代の儒学者、孟子によれば、「王道」とは夏・殷・周3
代の先王の政道であって、徳によって本当の仁政を行うことを意味します。一
方、孟子が言う政道にはもう1種類あって、それが「覇道」です。「覇道」と
は、春秋時代の覇者の政道であって、武力によって借り物の仁政を行うことで
す。そして、「覇道」よりも「王道」の方が優れていると孟子は説きました。

 このように孟子が創唱した天下統一の二つの理念としての「王道」と「覇道」
という弁別法に基づけば、「王道なし」ということは、その逆、つまり「覇道」
ということになってしまいます。ところが、非常に紛らわしいことに「学問に
王道なし」と言うときの「王道」は、孟子が説いた「王道」とは違います。で
すから、「学問に王道なし」というのは、幸いなことに「学問は覇道である」
ということにはなりません。

 「学問に王道なし」という言葉の由来をたどれば、紀元前300年頃にギリ
シャの数学者ユークリッドから幾何学を学んでいたエジプト王のプトレマイオ
ス一世が、「もっと手っ取り早く幾何学を学ぶ方法はないのか」と尋ねたのに
対して、ユークリッドが「幾何学に王道なし」と答えたという故事によるもの
とされています。ただし、ギリシャの哲学者アリストテレスがアレキサンダー
大王の家庭教師として赴任したときの言葉という説もあるようです。

 いずれにしても、「学問に王道なし」の意味するところは、「学問をするの
に安易な方法(=楽な道、近道)はない」ということであって、冒頭に書いた
受験生向けの英語の参考書には、"There is no royal road to learning." と
いう英訳が併記されていたと思います。

 以上をまとめると、孟子が説いた東洋の「王道」は、「徳によって本当の仁
政を行うこと」であり、古代ギリシャ人が説いた西洋の「王道(royal road)」
は、「安易な方法、楽な道、近道」ということです。この2つの意味内容は、
「王道」という一つの語で表すにはあまりにも違いが大きいことが分かります。


古代ローマ人の言葉
   2008/10/10 (金) 22:09 by 司馬拓也 No.20081010220926

 アメリカ合衆国における金融危機に端を発した世界的な株価の暴落が連日連
夜、新聞やテレビなどで報じられているのを目にすると、これは天下大乱の兆
しかとさえ思えてきます。

 さて、天下大乱といえば、ふと思い出すことがあります。学生だった頃に国
際政治学の授業で教わった次のような古代ローマ人の言葉です。

     汝(なんじ)平和を欲するならば戦争を準備せよ。

 なるほど平和憲法を掲げる日本でも専守防衛のための陸・海・空の兵力は保
持しています。ましてや、戦乱の絶えることがなかった古代ローマの時代なら、
「戦争を準備せよ」という戒めは無理からぬことであったでしょう。しかし、
表現の面から見れば、「戦争を準備せよ」というのは、どうも翻訳調の堅い表
現であって少し違和感があり、またこの表現には、自ら進んで戦争を仕掛ける
ための準備をするというようなニュアンスが感じられて、あまり好ましくない
のではないかと長年疑問に思っていました。

 ところがあるとき、テレビのCMで流れていたナレーションを耳にして、よ
うやく納得がいきました。そのCMでは、上記の古代ローマ人の言葉が、次の
ように述べられていました。

     汝(なんじ)平和を欲するならば戦いに備えよ。

 これならば、いつなんどき不意に戦いの禍が降りかかってくるか分からない
から、油断することなくそのような事態に普段から備えておくように、という
ニュアンスの言葉として受け止められます。要するに、「戦争を準備せよ」と
「戦いに備えよ」とは、同じような意味の表現でありながら、日本語としての
こなれ方やニュアンスといった点にかなりの違いがあるといえるでしょう。

 私はラテン語を学習したことがないので、この古代ローマ人の言葉が、原語
であるラテン語で何というのかは分かりません。が、もしも現代英語で表現す
るとすれば、

     If you want peace, prepare for war.
     あるいは
     If you want peace, you should prepare for war.

といった言い方になるのではないかと思います。


言語と民族で見るグルジア問題
   2008/8/19 (火) 23:03 by 司馬拓也 No.20080819230300

 1516年にラテン語で刊行されたトマス=モーアの空想的社会小説『Utopia』
は、題名が一般名詞化し、utopiaとして用いられるようになった。日本語では
「ユートピア」「理想郷」の他に「無何有郷(むかうのさと)」とも訳される
この言葉は、もとはギリシア語で「どこにもない場所」を意味する。

 今日の世界を見渡せば、戦争、紛争、抗争、貧困や差別など人類が直面して
いる問題は数知れず、複雑で深刻であり、解決への道のりは気の遠くなるほど
長い。まさしく「ユートピア」というのは「どこにもない場所」なのだと実感
せざるを得ない。

 さて、前置きが長くなったが、話は先ごろグルジアとロシアとの間で武力衝
突が起きた問題である。武力衝突の対象となったのは、グルジア共和国内の南
オセチア自治州だが、そこにおいて話される言語は、グルジアで多数派を占め
る人々が話すグルジア語ではなく、オセット語である。もともとグルジア語を
話す人々とオセット語を話す人々とは民族が異なる。オセット語はインド・イ
ラン諸語の中の一つであるから、大きく見れば、ロシア語と同じインド・ヨー
ロッパ語族に属する。それに対して、グルジア語は、5世紀にさかのぼる最古
のグルジア文字の文献を有しながらも、インド・ヨーロッパ語族とは関係のな
いカフカス諸語に属する言語である。

 詳しくは知らないが、南オセチア自治州の人々がロシアへの編入を希望して
いる背景には、彼らが話すオセット語が上記のようにロシア語と親縁関係にあ
るということも一因としてあるのかもしれない。


国際格差と金メダル
   2008/8/19 (火) 19:02 by 司馬拓也 No.20080819190251

 北京五輪の女子マラソンでは、日本人選手による3連覇はならず、ルーマニ
アの選手が優勝した。38歳という年齢でありながら、世界の強豪をおさえて、
42.195キロを一番のタイムで走りきったのは、お見事と賞賛するしかない。

 オリンピックでの各国の獲得メダル数は、その国の経済力にほぼ比例すると
いう説を耳にしたことがある。そう言われれば、そのようにも思えるが、実際
にはどうなのだろうか。

 ルーマニアは、ヨーロッパの中では貧しい国といっていいだろう。ドイツと
比べると、現在のルーマニアの労働コストは10分の1ぐらいらしい。だから、
フィンランドの世界的な携帯メーカーのノキアは、ドイツにある工場を労働コ
ストの安いルーマニアに移転することに決めたようだし、ドイツ国内の大手電
機メーカーでさえも生産拠点をルーマニアに移すことになって、ドイツ産業の
空洞化を懸念する声が出ているとか。

 産業の空洞化といえば、日本ではすでに2度の石油危機を経験した1970
年代から時事的な話題になっていて、確か、NHK総合テレビで磯村尚徳氏の
「世界の中の日本」とかいうシリーズ特集番組でも問題として取り上げられて
いたように記憶している。その後、日本産業の空洞化はどの分野でどの程度進
んでいるのかよく分からないが、組み立て工場を労働コストの安い中国や東南
アジア等に移転するか、あるいはそれらの地域で委託生産する形をとる企業が
増えていることは間違いないだろう。

 それはともかくとして、最貧国の一つに数えられながらも北京五輪の陸上競
技で金メダルを獲得していま世界で注目を集めているのがジャマイカだ。多く
の人はジャマイカと聞けば、まずポピュラー音楽の「レゲエ」を思い浮かべる
かもしれない。だが、過去のオリンピック陸上短距離走で金メダルを獲得した
選手には、外国籍で出場したジャマイカ出身者が多いという。だから、今回の
北京五輪の陸上男子100m走でジャマイカのウサイン・ボルト選手が世界新記録
(9秒69)をたたき出して金メダルに輝いたのも、女子100m走でジャマイカの
選手がメダルを独占したのも、ジャマイカの伝統に見合うものだと言っていい
だろう。

 それから、キューバも貧しい国の一つだと思うが、一昨年に行われた野球の
WBCのときに、キューバの選手たちに立派なキューバ魂というものを感じた。
今回の北京五輪でも野球のキューバ代表チームは強い。

 国際的な経済格差という不平等に負けずに、北京五輪の残りの競技種目でも、
いつまでも世界の人々の心に残るすばらしいルーマニア魂、ジャマイカ魂、キ
ューバ魂を見せてくれることを期待している。ただ、野球では星野ジャパンの
選手たちが今度こそ笑顔で金メダルを取れるよう祈っている。


嵐の前の静けさ
   2008/8/14 (木) 23:01 by 司馬拓也 No.20080814230123

 この間、ドイツのニュースサイトを見ていたら、Die Ruhe vor dem Sturmと
いう言葉が目に止まった。これは「嵐の前の静けさ」という意味である。岩波
書店の「広辞苑」に書かれているように、これは「変事の起る前の、一時の無
気味な静穏さのたとえ」として使われる。時代劇の台詞としても何度か聞いた
ような覚えがあるこの言い方は、それまでは、日本古来の表現だろうというイ
メージがあったから、ドイツ語にも全く同じ発想のこの表現が存在しているこ
とは意外だった。

 ドイツ語の辞書を調べてみると、Ruheの項目のところに、Die Ruhe vor dem
Sturm が確かに用例として記載されていた。だから、これはドイツ語本来の表
現だろうと推測される。そうだとすると、日本語の「嵐の前の静けさ」という
言い方の出自は、どうだろうか。もしかすると幕末から明治にかけて、ドイツ
語あるいは西洋語から借用された翻訳表現なのかもしれない。

 そこで、手もとの和英辞典で「静けさ」という見出し語を引いてみると、英訳
例の中に「あらしの前の静けさ/ the calm [quiet] before the storm」という
のがあった。ここに使われている calm をキーワードとして、今度は英和辞典を
引いてみると、

  the calm before the storm あらしの前の静けさ
  It was the calm before the storm. あらしの前の静けさだった。

といった用例が載っていた。一方、quiet をキーワードとして、今度は英和辞典を
引いてみると、

  the quiet after a storm あらしの後の静けさ

のように、before ではなく after を使った用例が見つかった。まあ、嵐の前にも
後にも、ともに静けさがあるものだ──ということだろう。

 ついでながら、After a storm comes a calm.(嵐あらしの後には凪が来る;待て
ば海路の日和あり)という諺(ことわざ)もある。


リアリズム乏しき立秋
   2008/8/14 (木) 17:06 by 司馬拓也 No.20080814170649

 太陽の黄経が135度に達する時を立秋と定めているそうで、例年だとそれ
は8月8日だが、今年は閏年のせいか8月7日だった。いずれの日にせよ、今
までにテレビのニュースなどで「今日は立秋です」と報じられるのを聞いても、
秋を実感した試しなど一度もなかったような気がする。

 今年も同じだ。8月7日を過ぎても連日うだるような暑さが続いているのだ
から、「立秋」というのは体感的季節感からすれば、リアリズムに乏しい絵空
事にすぎない。もちろん、気象や暦といった分野の権威ある人たちが特定の日
にくさびを打ち込むようにして「立秋」という区切りを付けているのには、何
らかの揺るぎない理論的な根拠があるに違いないと思う。が、その根拠が何で
あろうと、すでに秋が始まっていると言われても、少なくとも吾が輩(猫では
ない)の生活実感には合わニャ〜いのだ。よって、暑いものは暑いと言挙げす
るデモクラシーを実践するしかない。

 ちなみに、「立秋」を英語に訳すときは、the first day of autumn [fall]
とか、the beginning of autumn (in the traditional Japanese calendar)と
いったような表現を用いるが、もともと西洋には「立秋」という概念はない。


格差社会
   2008/8/14 (木) 05:09 by 司馬拓也 No.20080814050904

 アングロ・サクソン流の資本主義経済活動の行き着くところ、おしなべて格
差社会。中間層は徐々に消滅し、富裕層と貧困層への二極分化。かつ、グロー
バリゼーションと重なり、地域間格差も必然的現象。が、他にとるべき方策の
名案もなく、ひたすら回る構造改革の糸車。過剰人口によって貧困の増大は避
けられないと言った18世紀イギリスのマルサスの『人口論』は遙か遠くにか
すみ、いまや日本もドイツも少子高齢化が貧困層拡大要因の一つ。エコを意識
し持続可能な経済発展を望みつつ、持続可能でなくなるかもしれない年金制度
を心配する人々の将来への不安の広がり。経済合理主義の威光の下、ぬくもり
のある世間の人情の絆を寸断していく「小さな政府」と「自己責任」の大合唱。
さて、あなたはどうする?


猛暑と冷夏
   2008/8/5 (火) 23:03 by 司馬拓也 No.20080805230310

 昨年に引き続いて今年の夏も、このように連日猛暑が続いていると、「これは
やはり地球温暖化が進行しているせいかな」などとつい短絡的に考えてしまいが
ちですが、一昨日、ドイツのマインツ在住の日本人のブログを見ていたら、ドイ
ツでは去年も今年も冷夏で、半袖ではもう寒いと書かれていたので驚きました。

 そして、もう一つ驚いたことは、ドイツではいま好景気にわいているという情
報でした。こちら日本では、原油や農産物を含む輸入原材料価格の高騰に加えて、
アメリカのサブプライムローン問題のあおりなども受け、いま経済的に苦境に立
たされている政府はプライマリーバランスの問題は後回しにして新しい景気対策
に取り組もうとしているというのに、同じ民主主義で市場経済の国でありながら、
ドイツと日本の現状は何という違いでしょうか。


歴史の真実
   2008/8/5 (火) 23:02 by 司馬拓也 No.20080805230238

  Was ist die Wahrheit der Geschichte? Das ist eine wichtige Frage,
also schreibe ich darueber hier.

 大ざっぱに一言でいえば、歴史の真実は把握できないというのが、歴史の真実
でしょう。

 にもかかわらず、歴史を記述することに意義があるのは、司馬遷が『史記』に
書いているとおりだと思います。

 だいぶ昔のこと、森本哲郎著『サハラ幻想行』の朗読をラジオで聞いていたと
きに、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉として、「語りえない
ことについては人は沈黙せねばならない」(Wovon man nicht sprechen kann, 
darueber muss man schweigen.)というのがあるのを知りました。まあ、禅仏教
で「不立文字」「教外別伝」「以心伝心」などと言われたりするのも、そういう
考え方からだろうと思います。

 ただし、そうだとすると、考えれば考えるほど、私程度の者には「これはこう
である」と確信を持って言えるようなことは何一つ無く、貝のように押し黙って
いるより他にないのですが、しかしすべてがそれでは現実世界に責任を持って生
きていくことにはならないだろうと思います。よくは分からなくても分からない
なりに、「これはこうではないか」と思えることを表現していくことが、歴史に
ついても必要なことと、今は考えています。


Mas Que Nada(マシュケナダ)
   2008/7/20 (日) 16:17 by 司馬拓也 No.20080720161733

 暑い。とにかく暑い。7月も半ばを過ぎたのだから、暑いのは当たり前なの
だが、このような暑さの中でふと頭に浮かんだのは、「マシュケナダ」という
曲だ。この曲は中学生ぐらいのときに、アクションもののテレビドラマの中で
テーマ曲として使われていたという記憶があり、それが私がこの曲を耳にした
最初だろうと思う。だからもうずいぶん昔の話だ。

 しかしこの曲は、その後もテレビやラジオの放送でしばしば流れているのを
聞くことがあるから、曲として強い生命力をもっている。それは一度聞いたら
ずっと耳の底に残るような曲であり、またニューチェがかつて言った音楽のも
たらすディオニュソスの陶酔をこの曲は原初的な形で宿しているのではないか
とも感じられる。夏のイメージと重なるこの曲を聞いてかすかに血が騒ぐのを
覚えるのは、人類の祖先が熱暑のアフリカのサバンナで誕生したときの生の根
源とどこかで結びついているからかもしれない。

 「マシュケナダ」は、ボサノバ(bossa nova<ポルトガル語)というジャン
ルに分類される曲で、岩波書店の『広辞苑』や三省堂の『大辞林』によれば、
「ボサノバ」とは1950年代末にブラジルに興った軽音楽で、サンバにジャズの
要素を加え都会的に洗練させたものである。

 原題をポルトガル語で Mas Que Nada(マシュ・ケ・ナダ)と綴るこの曲は、
セルジオ・メンデスとブラジル 66(Sergio Mendes & Brasil 66)の演奏によ
って大ヒットとなったが、私が少年の頃に最初に聞いた曲もその当時にレコー
ディングされたものにちがいない。動画サイト「YouTube」を見てみると、最新
の「マシュケナダ」は Sergio Mendes & Brasil 2006 によって演奏されている
ことが分かった。こちらは昔の Brasil 66 の素朴な演奏とは違って、狂おしい
ほどの情熱をたぎらせたようなヒップホップ・バージョンで、いっそうディオ
ニュソスの陶酔と狂騒と一体感とを具現しているように感じられた。

 あるドイツ人は、古代ギリシャの芸術の特徴を「高貴な単純さと静かな偉大
さ」と言った。一方、和辻哲郎は『風土』という著書の中でインドの美術の特
徴を「表現の横溢と装飾の過剰」と書いていたように思う。そうしてみると、
古代ギリシャとインドとは芸術的表現の趣味において、まるで対極に位置して
いるかのようであるが、そういう判別の仕方に従えば、「マシュケナダ」のヒ
ップホップ・バージョンに見られる表現の趣味は、古代ギリシャよりもインド
のそれに近いことは間違いない。

 「マシュケナダ」という曲が秘めている一瞬のまばゆい生の輝きと情熱は、
裏を返せば、はかなさと無常感を漂わせるものである。日本人は古代インドか
ら万物の無常ということを学び、平安時代に「もののあはれ」という独特の感
性を生み出した。あるドイツ文学者が言ったように、夏は日本人に無常を最も
感じさせる季節である。松尾芭蕉が奥州への旅のなかで詠んだ「夏草や兵(つ
わもの)どもが夢の跡」もその心の動きの表れの一つだろう。

 とすれば、やはり「マシュケナダ」はこの猛暑の夏に、草いきれを感じなが
ら聞くのが最もふさわしいのだ。


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