則天去私の文学論 『日本篇:俳諧狂句』

長谷部さかな 著

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PAGE 1 (1〜10)


はじめに
   2017/5/1 (月) 07:41 by Sakana No.20170501074126

05月01日 

  夏目漱石の幻の論文『則天去私の文学論』
の内容を推理するための資料として、『英国
篇:薔薇戦争』『米国篇:多元的宇宙』のほ
かに『日本篇:俳諧狂句』のペーパーを追加
します。
 『文学論』序には、「漢学に所謂文学と英
語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得
べからず異種類のものたらざるべからず」と
ありますが、異種類のものもサンプルを出し
て比較研究しなければ、「根本的に文学とは
如何なるものぞ」という問いへの答が見つか
りそうもありません。
 「漢学に所謂文学」なら左国史漢を学べば
よいのですが、それには子供の頃から四書五
経の素読からはじめる必要があります。残念
ながら現代日本人にはその習慣はすたれてい
ます。
 一方、『文学論』には断面的文学への言及
があります。曰く、「吾が邦の和歌、俳句も
しくは漢詩の大部分の如きは皆この断面的文
学に外ならず。故に、その簡単にして、実質
少なき故を以てその文学的価値を云々するは
早計なりといふべし」。
 幸いにして俳句や川柳は現代日本において
もすたれていません。漱石も俳句や漢詩を詠
んでいます。『吾輩は猫である』や『草枕』
には俳句や漢詩が引用されているところをみ
ると、断面的文学が漱石の小説の基本成分に
なっていることはまちがいありません。文学
的内容の種類や基本成分については『文学論』
第一編で詳述されています。
 そこで、私は滑稽的連想という文芸上の真
を伝える手段を武器とする俳諧(狂句、俳句、
川柳)に注目し、自己本位の分類と鑑賞を試
みてみようと思いつきました。
 文学的内容の種類と基本成分を収集分類す
る資料としては、『文学論』のほか『犬筑波
集』『芭蕉七部集』『おくのほそ道』『武玉
川』『柳多留』、潁原退蔵『俳諧名作集』、
東野大八『川柳の群像ー明治・大正・昭和の
川柳作家100人』などを参考にさせていた
だきます。
              (2017.5.01)



   2017/5/4 (木) 11:17 by Sakana No.20170504111755

05月04日

・古池や蛙飛び込む水のをと  松尾芭蕉 

  貞享三年(1686)作で、正風開眼の句と
されている。各務支考の『俳諧十論』によ
れば、芭蕉が始めて幽玄の體に眼を開き、
「是より俳諧の一道は弘まりけるとぞ」。
 古今随一という評価は動きそうもないが、
私は単純素朴な疑問にとりつかれた。この
句は芭蕉が狂歌師竹斎のふりをやめ、狂句
を超越した句といえるだろうか、それとも、
やはり狂句の類そのものなのだろうか?
 その二年前、貞享元年(1684)の十月か
ら十一月にかけて、名古屋に滞在した芭蕉
は、「狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉」
という発句を詠んだ。これに地元の俳人野
水が、「たそやとばしるかさの山茶花」と
七七の脇を付け、以下、五人の俳人により
三十六句の歌仙一巻を完成させている。


蛙2
   2017/5/7 (日) 06:14 by Sakana No.20170507061444

05月07日

・手をついて歌申ぐる蛙哉 山崎宗鑑?

 川柳以前の川柳的なーーつまり、俳句と川
柳が二筋の流れに分かれる以前、ともに俳諧
とみなされていた古きよき時代の狂句。
 潁原退蔵の解説によれば、『古今集』の序
文「花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、
生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざり
ける」に詠んで、蛙が手をついて鳴く格好を、
歌を申上げるとをかしく言ったのである。
 ただし、「これも宗鑑の句として名高いも
のだが、『耳無草』に道寸といふ人の句とし
て出てゐるのでなほ疑わしい」ともいう。
 作者が宗鑑か道寸かわからないが、宗鑑
(1465?-1554年)は松尾芭蕉(1644-1694)よ
りも約200年前に活躍した俳人である。紀貫
之らの『古今集』編纂は延喜5年(905年)。


蛙3
   2017/5/10 (水) 07:09 by Sakana No.20170510070936

05月10日

・だんびりと池に蛙の飛び入りて 竹馬狂吟集

 「長者のむすめ仏にぞなる」に付けた狂句。
山崎宗鑑作と伝えられる「手をついて歌申ぐ
る蛙哉」とともに芭蕉の古池句につながった。
 「だんびり」は「どんぶり」の類似音で用
いた壇毘利長者のことで、だんびりと蓮の池
に飛び込めば、長者の娘だけでなく蛙でさえ
極楽往生するだろうというほどの意味らしい。
 当時の説法説話に、「だんびり長者」なる
ものがあり、前世に三人の聖人に施しをした
ため、国王に過ぎた楽を得たと伝えられる。
 十六世紀の庶民は、この狂句で笑ったかもし
れないが、二十一世紀の庶民は手引書を読ん
で勉強しないと笑えない。狂句を理解するに
も教養がもとめられる。困ったものだ。


蛙4
   2017/5/13 (土) 05:42 by Sakana No.20170513054242

05月13日

・歌軍文武二道の蛙かな   安原貞室

 歌軍は「うたいくさ」と読む。作者の安原
貞室(1610-1673)は、江戸時代前期の俳人で、
芭蕉の先輩にあたる。
 当時の武士が文武二道をもとめられたよう
に蛙も蛙合戦と歌合戦で文武二道にはげんで
いるというような意味らしい。
  歌合戦は『古今集』序文の「水にすむ蛙の
声」から推測できるが、蛙合戦とはどういう
意味か? 解説書によれば、多数の蛙が群れ
集まって、争うように交尾することだという。
 ついでに思いついて、井上ひさしの戯曲
『表裏源内蛙合戦』を読んでみた。江戸時代
の文武両道の達人平賀源内を描いた作品だ。
表の源内と裏の源内との合戦というか会話は
面白いが、蛙合戦の意味解読の参考にはなら
ない。蛙が一匹も登場しないからだ。


蛙5
   2017/5/16 (火) 05:49 by Sakana No.20170516054946

05月16日

・閣に座して遠き蛙を聞く夜かな 与謝蕪村

  老眼のせいで、上五を「闇に座して」と
間違って読み、遠い昔のことを思い出した。
 子供の頃、いたずらをして、倉に閉じ込
められたことがある。倉の中は真っ暗闇だ
った。座していると、遠蛙の声が聞こえて
きた。なつかしい声だ。
 やはり蕪村の句に「遅き日のつもりて遠
き昔かな」があり、二句のイメージが重な
ってくる。
 しかし、原句の上五は「閣に座して」だ。
「闇に座して」ではない。それでも悪くな
いが、「閣」だと、私には金閣寺やら銀閣
寺やら通天閣のイメージが邪魔になる。思
いきって斧正(ふせい)したいが、まさか
私が蕪村の句を正すわけにはいかない。


蛙6
   2017/5/19 (金) 07:30 by Sakana No.20170519073023

5月19日

・やせ蛙まけるな一茶これにあり 小林一茶

  やせ蛙が手をついている姿は相撲の仕切り
をする力士のようだ。大相撲で痩せこけて弱
そうな力士が登場すると、一茶のように応援
したくなる。まぐれで勝ったりしたら大歓声。
 しかし、現実は甘くない。やせ蛙は黒星が
増えて、番付をさげ、やがて引退に追い込ま
れる。もともと相撲という競技に向いていな
かったのだ。
 そんなやせ蛙に声援を送る一茶も似たよう
な境遇だったが、俳諧の世界で名を残した。
   芭蕉(1644-1694)  風雅の詩人
   蕪村(1716-1784)  郷愁の詩人
   一茶(1763-1828)   狂句の詩人
 蛙の読みは、芭蕉「かわず」、一茶「か
える」だと思うが、蕪村はどちらだろう。


蛙7
   2017/5/22 (月) 07:56 by Sakana No.20170522075645

05月22日

・水がめに蛙うくなり五月雨  正岡子規

 この蛙は鳴かない。水の中に飛び込む音もた
てない。じっとして水かめにういている。降
り続ける五月雨ーーただそれだけを詠んだ俳
句であるが、古池が水がめに変わっただけで、
これも幽玄の體に眼を開いた句ということに
なるのかもしれない。R.H.ブライスの英訳を
ながめ、幽玄(mysterious profundity)につ
いて考える。すると、神秘的に深遠な古池や
水がめから蛙の歌が聞こえてくるよ。
  a frog floating    (the old pond;
  in the water jar -  a frog jumps in,−
  rain of summer      the sound of the water.)
  クヮ クヮ クヮ クヮ (ケロケロケロケロ
  ケケケケ ケケケケ      ゲゲゲゲゲゲゲゲ
  クヮクヮクヮ            ゲロゲロゲロゲロ)


蛙8
   2017/5/25 (木) 07:21 by Sakana No.20170525072109

05月25日

・山吹や喉がふくれて啼く蛙  高濱虚子

 「古池や蛙飛び込む水のをと」について、
高弟の其角が上五に「山吹」をもちいたらど
うかといったという話が伝わっている。芭蕉
は弟子の進言をとらず、「古池」にこだわっ
たという。
 古今集の昔から、蛙は鳴くものというのが
本意ということになっているが、芭蕉は飛び
込むものとしてしまった。それはいわば俳諧
の掟破りであり、本意に照らしてみると、歌
語としての「山吹」は水の側に咲くものとい
うことで鳴く「蛙」と常に結びつけて詠まれ
てきたというのが其角の進言の根拠である。
 古池か山吹か。虚子はあえて其角の山吹
説をとり、蛙が啼くときの「喉のふくれ」に
着目して、「どや、芭蕉翁!」と挑戦した。


蛙9
   2017/5/28 (日) 07:27 by Sakana No.20170528072731

05月28日

・青蛙おのれもペンキぬりたてか 芥川龍之介

 いかにも芥川龍之介作らしい機知に富んだ
近代的な狂句である。ペンキの語源はオラン
ダ語のpekらしい。英語ではpaint。いずれに
しても外来語であり、江戸時代の俳諧でペン
キを詠んだ句はないと思う。虚子選の「ホト
トギス」に掲載されたというから客観写生の
句ともいえるかもしれない。
 しかし、ジュール・ルナール(1864年生まれ)
『博物誌』(辻昶訳)に、
 いとかげペンキ塗りたてご用心!
がある。もしかして盗作?
 しかし、このような原作に似せた作品は本
歌取りであり、盗作とはいわない。そういえ
ば、『鼻』や『羅生門』も『今昔物語』から
の換骨奪胎。芥川龍之介は本歌取りの名人だ。


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則天去私の文学論 『日本篇:俳諧狂句』 長谷部さかな 著
 Copyright (C) Sakana Hasebe 2017