あすなろ書評 
文・司馬拓也 (C) / 随時更新
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 『百寺巡礼 第二巻 北陸』
  2011/03/03

 『百寺巡礼 第二巻 北陸』
 (五木寛之著、講談社文庫)

 この本は、第一巻から第十巻までシリーズとして刊行されている『百寺巡礼』のうちの第二巻です。各巻で十ヵ寺ずつ取り上げられていますので、全十巻で合計「百寺」になります。この第二巻に書かれているのは、北陸地方にある十ヵ寺についてです。
 「北陸を旅して」と題する序文の冒頭には、「北陸は私にとって『第三の故郷』といっていい土地である。」と述べられていて、北陸十ヵ寺を旅する著者の深い思いが伝わってきます。
 ちなみに、『百寺巡礼』という題名を見ると、昔読んで大いに感銘を受けた和辻哲郎の名著『古寺巡礼』を思い出します。それとの比較でごく大雑把な印象を言えば、『古寺巡礼』がその記述内容における優れた芸術性や精神性に特徴があるのに対して、『百寺巡礼』は民衆の信仰や心の拠り所といったものをそれぞれの寺院の成り立ちや歴史と重ね合わせて生き生きと親しみやすく描き出しているところに特色があるように思われます。
 この本には、この世に生きる上で大切なことやヒントになることがいろいろと書かれていますが、特に注目したいのは、「第十七番 永平寺」のところに書かれている「五観の偈(げ)」と「幸せの要求水準」に関することです。
 「五観の偈」というのは、永平寺の食事の作法として、食べはじめる前と食べ終わったときに唱える言葉です。観光客や在家の人々に供される食事では、箸袋(はしぶくろ)にその言葉が書かれていて、コーチ役の雲水(うんすい)さんが一緒に唱えてくれるそうです。「五観の偈」の内容はここには書き写しませんが、「食事を受けるときに反省や感謝など五つの教えをよく考えるための経句(きょうく)」(p.177)である「五観の偈」を見ると、食事をいただくということが本来いかに深い意義のある修行であるかが分かり、心を打たれます。
 他方、「幸せの要求水準」について、著者は自らの戦後の体験などを交えながら、「禅寺では『坐って半畳、寝て一畳』で人間には十分だということを学ぶ。(中略)生活の要求水準を低く保つということは、大事なことではないか。最低線の設定を低くしておけば、いつも幸福を感じていられるのだから。」と述べています。確かにこれは古今に通じる真理で、いわゆる「家康遺訓」にも「不自由を常とおもへば不足なし、こゝろに望おこらば、困窮したる時を思ひ出すべし」との言葉があります。が、これには異論の向きもあることを見越して、この本の著者は「人間の進歩とは、欲求不満や欲望がもたらしたものだ、とも言われる。しかし、その進歩幻想というもの自体が、もはや崩壊しているのが現実ではないだろうか。」と警告しています。そのあたりのことについては、ウィリアム・B・アーヴァイン著、竹内和世訳『欲望について』(白揚社)という本の中で、「ミスウォンティング」といった概念などを用いて科学的、哲学的、宗教的な解明が試みられていて、たいへん参考になります。
 さて、これらの「五観の偈」や「幸せの要求水準」についての話を読むと、現代日本人の多くが日常生活の中で利害損得勘定では表せない、人間として大切なものを見失ってしまっていることの大きさを痛感させられます。それを見失っていること自体、現代という時代のもつ偏見と言えるでしょう。
 なお、「第十九番 明通寺」のところで、この本の著者が次のように現代文明への強い疑念を表明していることも心に留めておくべきことだと思います。それは、「二十世紀までの文明の特徴は、『傲慢さ』だったと思う。それを生み出したのは、科学や技術に対する過信だった。あるいは、そういうものを駆使する人間に対する過信だったとも言えるだろう。(中略)文明が進むにつれて戦争が増えていく。戦争の犠牲者が増えていく。こんな馬鹿なことがあっていいのか。人間は愚かだ。この文明は根底からまちがっている。私にはそう思えてならない。」(p.225)ということです。


   

 『ふだん使いの正しい敬語』
  2011/02/25

 『ふだん使いの正しい敬語』
 (奥秋義信著、講談社+α文庫)

 先月、とある駅のホームで電車を待っていたとき、近くに本の自動販売機があることに気づきました。見ると、販売機のガラス越しに展示されているいくつかの文庫本のなかにこの本のタイトルがありました。面白そうだと思って、私が生まれて初めて自販機で購入した本がこれです。
 閑話休題。生まれたときから日本人として日本語の中で毎日暮らしていても、敬語というのはなかなか難しいもので、明らかに間違った敬語の使い方をしているのを見たり聞いたりすることがしばしばあります。
 そういう日本語環境の中で、日常生活で頻繁に使われる敬語表現について、一般読者向けに分かりやすく書かれているこの本は、多くの方々にとって非常に参考になると思います。
 この本の「まえがき」の冒頭には、「敬語は必要。だけど自信が持てない」と考える人が多いことが日本語の各種の調査に現れていると述べられています。この本は、コラムのページ以外は基本的にQ&A形式で構成されていますので、まずQ(問い)のページを見て例題の正誤を自分なりに判定し、それから解説を読むことによって、それぞれのQに関して日頃の自分自身の敬語の感覚が正しいか間違っているかを確認することができます。
 ただ、Qに対する自分の正誤の判定が間違っていた場合には、この本に書かれている文法的な説明を読んで理解し納得したとしても、それだけで敬語が身につくわけではないでしょう。理屈では分かっても、実際に敬語を使う場面で、いちいち頭の中でその理屈を考えながら話したり書いたりするのでは、時間がかかるばかりでなく、敬語の使い方に気を取られて肝心の内容の方がおろそかになってしまいます。ですから、大事なのは、それぞれの敬語についての説明を読んで理解したことを自分の中でいかに感覚化するレベルまで引き上げ、特に意識しなくても正しい敬語の使い方ができるようになるかということだと思います。
 他方、人が使っている敬語表現の誤りに気づいてそれを指摘するときに、なぜそれが誤りであるのかを説明することが必要な場合もあると思います。しかし、いざうまく説明しようとしても、どう言ったらいいのか困ることもあるでしょう。そんなときに、この本を読んで敬語に関する説明方法を知っていれば、たいへん役に立つに違いありません。
 ところで、この本に取り上げられている敬語の中で、著者の見解にやや同調しかねるところがわずかながらありました。その一つは、「5番線に電車が参ります」と言うよりも「5番線に電車が入ります」と言う方がよいでしょうと、著者が少し遠慮がちに判定している点です(本書、pp.93-94)。敬語の使い方の理論としては確かにそうなのでしょうが、私はむしろ「5番線に電車が入ります」という言い方に違和感があります。実際に「○○番線に電車が入ります」というアナウンスは聞いた覚えがないような気がします。
 たとえば、ついこの間、JR京浜東北線の駅のホームでアナウンスに耳を傾けてみたところ、「まもなく○○番線に□□行きの上り電車が到着します」とか「○○番線に電車が参ります」という表現が使われていて、小さな電光掲示板には「電車がきます」と表示されていました。一方、「電車が入ります」という表現は見聞きできませんでした。このことからすると、「電車が参ります」という言い方は、敬語としての使い方の適否はともかくとして、すっかり慣用表現になってしまったのだと言えるのかもしれません。
 ともあれ、日常使われる敬語についての自らの弱点を認識し克服する上で、この本は大きな力となる好著と言えると思います。


   

 『日本辺境論』
  2011/02/22

 『日本辺境論』
 (内田樹著、新潮新書)

 この本の帯には「新書大賞2010 第1位!!」とデカデカと書かれていて、まずそこに目を引かれます。
 この本の書き方の特徴として気づいたことは、不当な批判や揚げ足取りに備えて随所に予防線が張り巡らされていること、そして『広辞苑』や『大辞林』にも項目として取り上げられていないような高度な漢字語が少々用いられていることなどです。が、それはともかくとして、これは「新書大賞」を受賞するだけの内容のある本だと思いました。
 面白いのは、著者が本のはじめの章に、次のように書いていることです。

 日本文化というのはどこかに原点や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません(あら、いきなり結論を書いてしまいました)。すぐれた日本文化論は必ずこの回帰性に言及しています。(本書、p.23)

 また、この少しあとには、

 丸山が言うとおり、「きょろきょろして新しいものを外なる世界に求める」態度こそはまさしく日本人のふるまいの基本パターンです。それは国家レベルでもそうですし、個人についても変わりません。(本書、p.24)

と書かれていて、そのふるまいの基本パターンを通じて「日本文化そのものはめまぐるしく変化するのだけれど、変化する仕方は変化しない」と著者は解説しています。つまり、それが日本文化の有り様というわけです。
 ところで、近年、「KY」という語が流行し、「空気が読めない」人間を非難したり揶揄したりするのに使われています。しかし、この本に、

「お前の気持ちがわかる」空気で戦争
 日本人が集団で何かを決定するとき、その決定にもっとも強く関与するのは、提案の論理性でも、基礎づけの明証性でもなく、その場の「空気」であると看破したのは山本七平でした。(本書、pp.44-45)


と書かれているのを読むと、「KY」という語の流行には一抹の不安を覚えます。というのは、日本人は空気を読むのに機敏であるがゆえに、論理性も基礎づけの明証性もないまま、その場の空気に従ってあの戦争に踏み切ってしまったと考えるならば、「KY」というレッテル張りによって、場の「空気」に従わせようと人に圧力をかける風潮が近年蔓延していることは、論理性や基礎づけの明証性よりも、場の「空気」を優先する戦前の思考様式に日本人は逆戻りしていることになるからです。
 この本の最後の章では、政策論争に見られる日本人の議論のやり方のおかしな点として、次のような指摘がなされています。

 私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらう」ということにはあまり(ほとんど)努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。テレビの政策論議番組を見ていると、どちらが「上位者」であるかの「組み手争い」がしばしば実質的な政策論議よりも先行する。うっかりすると、どちらが当該論件について、より「事情通」であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります。(本書、pp.216-217)

 また、これと同じ章では「日本語がマンガ脳を育んだ」という見出しのもとに、日本語の構造の特殊性に触れた上で、次のように書かれているのは、たいへん興味深いことです。

 マンガを読むためには、「絵」を表意記号として処理し、「ふきだし」を表音記号として処理する並列処理ができなければならないわけですが、日本語話者にはそれができる。並列処理の回路がすでに存在するから。だから、日本人は自動的にマンガのヘビー・リーダーになれる。(本書、p.231)


   

 『般若心経は間違い?』
  2007/08/26

 『般若心経は間違い?』
 (アルボムッレ・スマナサーラ著、宝島社新書)

 著者は、テーラワーダ仏教(パーリ語で Theravada =上座部仏教)の立場からこの本を書いています。言い換えれば、「大乗非仏説論」の観点から『般若心経』の内容の正誤について検討し解説したのがこの本です。
 『般若心経』は、わずか262文字という短さの中に仏教の最も大切な教えがぎゅーっと凝縮されているという評価によって、読経においても写経においても、日本人の間で最も人口に膾炙(かいしゃ)した仏教経典と言われています。
 さて、問題はこの本の著者が指摘しているように経典の内容です。「色即是空」は釈尊本来の正しい教えであるけれども、「空即是色」は論理的に誤りであるという著者の指摘などは、「なるほど、そういわれてみれば確かにそうだ」と気づかされます。また、釈尊の教えの根幹となっている「四聖諦(ししょうたい=4つの真理)」や「十二因縁」について、『般若心経』は「無」という言葉をつけてことごとく否定しています。その点については、空の哲学を説いた『般若心経』の性質に鑑みて、私は「仏陀の根本教理でさえも、究極的には執着せずに忘れ去るべきものということだろう」などと漠然と解釈していました。その解釈の背後には「至言は言を去り、至芸は芸を去る」という東洋的世界観があったように思います。しかし、この本に書かれている解説を読んでみて、確かに『般若心経』の内容や話の展開にはいろいろと無理があるように感じられました。
 ともかくも、『般若心経』を題材にして、「空」と「無」の違い、「空」と「無常」の関係など、仏教の根本教理にかかわる様々な概念や考え方、そして実践の重要性が開示されているという点で、この本から学ぶことは多いと思います。


   

 『英語学習 7つの誤解』
  2007/08/26

 『英語学習 7つの誤解』
 (大津由紀雄著、生活人新書、NHK出版)

 この本を読む意義を一言で表すとすれば、英語学習に関して巷に氾濫している「幻想」を払拭し、英語習得の重要ポイントとしてあたかも常識のように思い込まされている「妄想」から解脱することです。これは最新の科学的な研究成果を踏まえて、一般人向けに冷静かつ論理的に書かれた本であるため、良識とバランス感覚のある内容の正当性に納得がいきます。
 本の後半には、達人たちの英語学習法の紹介や、外国語学習の正否に影響を与える3つの要因についての解説などが記載されています。これから高いレベルの英語力を身につけようとしている方々にとって、これらは貴重な参考になると思います。
 本書の中で、学習英文法の重要性が繰り返し述べられているのは、まさに英語学習指南の王道といえるでしょう。


   

 『カラー版 ブッダの旅』
  2007/08/26

 『カラー版 ブッダの旅』
 (丸山勇著、岩波新書)

 仏教の創始者、釈尊ゆかりの地を文章と写真でたどる本です。釈尊生誕の地である現ネパール領ルンビニーをはじめ、出家、修行、成道、そして45年間にわたる説法をしたインド各地に釈尊の足跡を追い、現在の風景描写を交えつつ往時の様子を偲び、釈尊にまつわる有名な説話の数々を紹介しています。美しいカラー写真の効果もあって、仏教の源流に漂う奥深い精神世界の厳かな清々しさや懐かしさといったものが、読み進む間に胸のうちに静かに満ちてくるのが感じられます。
 巻末(pp.183-201)には前田專學氏による「ゴータマ・ブッダ ── その人と思想」と題する解説文が掲載されています。これは仏教の一番のエッセンスを分かりやすく簡潔にまとめたもので、「仏教とは何であるか」ということを一気に手っ取り早く知りたいと思っている方々には、最適なガイドになると思います。


   

 『無思想の発見』
  2006/05/11

 『無思想の発見』
 (養老孟司著、ちくま新書)

 常識と思われている物の見方、考え方を逆転する事柄がいろいろと書かれている本であるが、最も強く感じたのは、この本が近代西洋文明がもたらした近代的自我の呪縛を解く決定的な鍵を与えてくれたということである。意識がすべてであるという観念論はもう捨て去らねばならないだろう。個性とか独創といったものを尊重するのはよいが、その実態をよく見直し正しく対応しなければならないだろう。封建的として一蹴されてきた伝統的な日本文化の多くの要素を改めて再評価しなければならないだろう。長い歴史の中で世間の人々の経験と知恵によって積み上げられてきた日本のシステムを、風土と伝統を無視した場当たり的な借り物の思想でなし崩しにしていくことはもうやめなければならないだろう。そのようなことをこの本を読んで考えた。


   

 『超バカの壁』
  2006/04/24

 『超バカの壁』
 (養老孟司著、新潮新書)

 世間で常識と思われている認識の中には、実際には真実でないものがいろいろとあることが、この本を読むとよくわかる。日頃薄々そうではないかと直感的に思っていたことには明快な言語化によって裏付けが与えられて「やっぱりそうなのか」と自己の洞察を改めて確認できたし、今まで考えてもみなかったことについては新たに教えられて「なるほどそうだったのか」と目から鱗が落ちる思いがした。そうした認識にかかわることばかりではなく、この本は人生の価値の問題や、著者が経験を通して得た処世の機微にも触れた内容が盛り込まれていて、奥が深い。いずれにしても、意識万能の都市化社会(脳化社会)が広がりすぎていることに、現代の危うさの根本的な問題があることは確かだと思う。


   

 『国家の品格』
  2006/02/21

 『国家の品格』
 (藤原正彦著、新潮新書)

 この本は最近だいぶ話題になっているようだ。近代西洋文明を成立させた基本理念である自由・平等・主権在民という、いわば戦後民主主義日本の常識ともいえるものに対して、この本の著者は痛烈なアンチテーゼを提示している。現在の世界を覆いつつあるアメリカ型価値観によるグローバリゼーションの弊害を認識し問題の根本的な解決を探る上で、この本は有力な思考材料を提供しているといえるだろう。また、この本は読者が日本の伝統や文化の値打ちを知りその美しい働きを見直すことを促している。進行しつつある日本社会の荒廃に歯止めをかけるために何が必要なのかを考えるヒントとして、この本は有意義だと思う。


   

 『日本語 表と裏』
  2006/02/08

 『日本語 表と裏』
 (森本哲郎著、新潮文庫)

 日本語に興味をお持ちの方なら、一読して決して損をすることはないと断言していい本である。合計24の語句や表現をテーマとして取り上げ、それらの言葉を生み出した背景を探る試みの中で日本文化の特性や日本人ならではの心性を浮き彫りにしている。
 この本を読むと、「よろしく」「やっぱり」「お世話さま」など普段何気なく使っている言葉に、さまざまな思慮や人間関係、文化的な傾向が織り込まれていることに改めて気づかされる。すぐれた洞察力と解明の手腕を持った著者に導かれて、日本語による表現の幅の広さと奥の深さを思い知らされることは感動的である。


   

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