みんなの辻説法
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ミンミンゼミの孤愁
   2008/11/1 (土) 22:15 by 司馬拓也 No.20081101221514

 昼下がりの住宅街に、遠くの方から一匹のミンミンゼミの鳴き声が聞こえて
きました。すでに秋も深まった11月1日だというのに、今頃になって季節外
れのセミの鳴き声を耳にするとは思いもよりませんでした。きっとあのセミは
明るく暖かな秋の日差しに誘われて、季節を夏と間違えて土の中から出てきて
しまったのでしょう。土の中から出てくるなら、もう2ヶ月ほども早く出てく
れば、まだ大勢のミンミンゼミの仲間たちが一緒に鳴き声を競い合ってくれた
はずです。今はもう仲間は誰もいません。ただ一匹のミンミンゼミの孤独な鳴
き声が穏やかな秋空の下に響き渡るだけです。

 ミンミンゼミも幼虫から成虫になるまで、7年間ぐらいを土の中で過ごすの
でしょうか。その間、セミは真っ暗闇の中でまったく孤独の毎日です。そして
ようやく光り輝く地上に出て、羽をつけて空を自由に飛び回れるようになると、
普通ならば、多くの仲間たちとの出会いが待っています。けれども、今日のミ
ンミンゼミはそのような仲間たちの姿を見ることもなく、また仲間たちの鳴き
声を聞くこともなく一生を終えることでしょう。

 セミが本能と直感によって地上に出る時期を判断するとすれば、その本能と
直感こそがセミにとっての自灯明といえると思います。それ以外に、セミには
何も頼るものがありません。季節を誤って地上に出てきて、孤愁を味わう羽目
になっても、それはすべてセミの自己責任です。誰一人、あのセミを助けてく
れる者はいません。天涯孤独、峻厳孤絶のセミの一生です。

 それではあのミンミンゼミの一生は、いったい何なのでしょうか。長年にわ
たる真っ暗な地中での孤独と、地上で仲間に巡り会えないという悲哀しかない
のでしょうか。しかし、地上に出てきた季節が晩秋だからこそ、いっそう素晴
らしい玲瓏の天の海をあのミンミンゼミは見ることができたのだろうと思いま
す。たとえその悲しみは青々深くとも。


お元気で何よりです!
   2008/9/22 (月) 23:36 by 司馬拓也 No.20080922233624

 イーハトーブさん、パソコンのハードディスクの故障、大変でしたね。
でも、そうなりそうなことをすばやく予知して、大切なデータをすべて外
部メディアに前もって保存されていたのは、さすがですね! 「備えあれ
ば憂いなし」のお手本だと思います。私が今使っているパソコンのハード
ディスクは、あと1ヶ月ほどで使用期間が4年になりますので、イーハト
ーブさんを見習って、いざという時に備えて本格的なデータのバックアッ
プを今のうちにしておこうかなという気になりました。

 今までお使いの機種と同年代のパソコンを確保されたというのも、「備
えあれば憂いなし」の実践となる良策ですね。ほぼ同じ環境で使えるパソ
コンがもう一台手もとにあるというのは、何と言っても安心感が大きいと
思います。

 まっさらな状態のパソコンに、周辺機器のドライバー&アプリケーショ
ンソフトのインストール、アップデート、それにカスタマイズなどという
作業には、確かにいつも苦労しますね。思い返せば、特に Windows 98 の
時代には、頻繁にシステムが起動不能に陥ってしまって、ノートンユーテ
ィリティーズでも修復がきかないときには、ハードディスクをフォーマッ
トし直して Windowsの再インストールをよくやっていましたから、そうい
う作業に本当に膨大な時間をとられてしまったという感があります。

 ところで、Pikaraネットというのは面白い名前ですね。光ネット
と「とから列島」の「とから」を組み合わせたような語感でもあり、電光
石火のような「ピカッ」という速さ「から」という意味のようでもあり、
はたまた「ピカイチ」のネット「だから」という開発者の思いを表してい
るようでもあり、とにかく快速通信ネットなのでしょうね。


お久しぶりです。
   2008/9/21 (日) 19:00 by イーハトーブ No.20080921190026

 久しぶりにMSGを書かせていただきます。イーハトーブであります。

 今年6月、4年半使っていたパソコンのハードディスクが壊れました。
パソコンの挙動が少々おかしいと思っていたので、自分が作成したデータ
や、ダウンロードしたデータは、すべて外部メディアに保存していたので
実質的な被害はありませんでしたが、復旧作業には苦労させられました。

 壊れた翌日に、近所の中古パソコンも扱っているショップに行くと、丁
度、今まで使ってた機種と同年代のパソコンがリフレッシュ(HDDが新
規)されたものが2台あり、その1台を即購入しました。

 周辺機器のドライバーやアプリケーションソフトのインストールやアッ
プデイトには、結局、12時間ぐらいかかりました。

 それから、この間にインターネットプロバイダーも変更しました。四国
電力(株)のPikaraネットです。当然、メールアドレスも変わって
しまったので、報告を兼ねて、MSGをアップしました。

 拓也さん、頑張り過ぎないのも人間らしい一つの「姿」ですよ。(^_~;;)


「修証義」を読む (6):今生を大切にすること
   2008/7/23 (水) 22:54 by 司馬拓也 No.20080723225420

 今回は、第六節です。

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 当(まさ)に知るべし今生(こんじょう)の我身(わがみ)二つ無し三(み)
つ無し、徒(いたずら)に邪見に堕(お)ちて虚(むなし)く悪業(あくごう)
を感得(かんとく)せん惜(おし)からざらめや、悪を造りながら悪に非(あ
ら)ずと思い、悪の報(ほう)あるべからずと邪思惟(じゃしゆい)するに依
(よ)りて悪の報を感得せざるには非(あら)ず。
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 さて、私たちが今生について考えるとき、もしも転生というものを信じない
人であれば、まさに今生こそが人生のすべてになるわけですから、ゆめゆめ今
生をおろそかにすることはできないでしょう。他方、転生というものを信じる
人にとっても、さきの第二節で見たように「人身(にんしん)得ること難し」
ということからすれば、来世は必ずしも人として生まれ出るとは限らないわけ
ですから、やはり今生は非常に大切です。

 このように貴重な今生において、たった一つしかない我が身が因果の道理を
わきまえず、悪業に走ってその報いを受け、せっかくの人生を棒に振ってしま
うようなことになったら、何ともったいないことでしょう。悪いことをしてい
ながら、悪いことなどしていないと独断で思いこみ、あるいは、どうせ悪業の
報いなどあるものかとタカをくくっても、悪業の報いを受けずにすむわけでは
ありません。
                              (つづく)


「修証義」を読む (5):報いが現れる三つの時期
   2008/7/23 (水) 17:17 by 司馬拓也 No.20080723171709

 今回は、第五節です。

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 善悪の法に三時(さんじ)あり、一者(ひとつには)順現報受(じゅんげん
ほうじゅ)二者(ふたつには)順次生受(じゅんじしょうじゅ)、三者(みつ
には)順後次受(じゅんごじじゅ)、これを三時という、仏祖(ぶっそ)の道
(どう)を修習(しゅじゅう)するには、其(その)最初より斯(この)三時
の業法(ごっぽう)の理(り)を効(なら)い験(あき)らむなり、爾(しか)
あらざれば多く錯(あやま)りて邪見(じゃけん)に堕(お)つるなり、但
(ただ)邪見に堕つるのみに非(あら)ず悪道(あくどう)に堕ちて長時(ち
ょうじ)の苦を受(う)く。
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 善悪の因果の報いが現れるには、三時(さんじ)、つまり三つの時期がある
と説かれています。まず一つめは、現世において報いを受ける場合。二つめは、
次の世において報いを受ける場合。そして、三つめは第三世以降の将来に報い
を受ける場合です。

 これら三時のうち、「現世において報いを受ける場合」というのは、自分の
目で見て確かめられる範囲ですから分かりやすいのですが、「次の世において
報いを受ける場合」あるいは「第三世以降の将来に報いを受ける場合」という
のはどうでしょうか。

 たとえば、現代の人々が二酸化炭素の排出量を削減する努力をしないでどん
どん地球温暖化を進め、またエネルギー資源などを大量に浪費する生活を続け
て天然資源を枯渇させ、さらには乱開発などで多くの動植物の種(しゅ)を絶
滅に追いる一方で広大な森林を消滅させるなど自然の生態系を破壊するような
活動をハイペースで継続していくとします。その結果、この地球上は人類にと
って非常に住みにくい環境になってしまうことは、普通の知識がある人ならば
誰もが推測できることだと思います。ただ、自分自身が生きている間には、た
だちにその報いを受けて環境の悪化や資源の不足に苦しむことはないかもしれ
ません。しかし、そのかわりに次の世代の人々やさらにその後の世代の人々が
そのツケを払わされることになることは確かです。また、来世やそのまた来世
に人間は生まれ変わるものだと信じる人であるならば、その転生した先の世に
おいて、環境悪化や資源不足などの報いを受けることになることは容易に想像
できるでしょう。

 そのように現世における善悪の因果は現世だけにとどまらず、次の世にも、
そのまた次の世にも巡っていくものであるというのが、三時の教えです。この
三時の業法(善悪の業に応じて受ける報い)の道理を無視して、現世において
自己の利益ばかりを追求して身勝手な振る舞いをするならば、生まれ変わった
ときの自己が、あるいは未来の子孫たちがその報いを受けて苦しむときが必ず
やってくることを知るべきでしょう。そうすると、エコライフに努めることの
意義もより深く理解できると思います。
                              (つづく)


「修証義」を読む (4):因果の道理を知ること
   2008/7/22 (火) 14:57 by 司馬拓也 No.20080722145753

 今回は、第四節です。

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 今の世に因果を知らず業法(ごっぽう)を明(あき)らめず、三世(さんぜ)
を知らず、善悪を辨(わきま)えざる邪見(じゃけん)の党侶(ともがら)に
は群(ぐん)すべからず、大凡(おおよそ)因果の道理歴然(れきねん)とし
て私(わたくし)なし、造悪(ぞうあく)の者は堕(お)ち、修善(しゅぜん)
の者は陞(のぼ)る、毫釐(ごうり)も[心+弋](たが)わざるなり、若
(も)し因果亡(ぼう)じて虚(むな)しからんが如(ごと)きは、諸仏(し
ょぶつ)の出世(しゅっせ)あるべからず、祖師の西来(せいらい)あるべか
らず。
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 因果、つまり物事には原因があって結果が生じるというものの見方は、実に
科学的な関係性の論理であって、世界中の誰もが疑う余地のない普遍性を持っ
てるといっていいでしょう。ただし、仏教において因果論を持ち出すときに気
をつけなければならないことがあると思います。それは何かといえば、因果応
報を間違って解釈することにより、他者に対する差別を正当化したり、あるい
は他者を迫害したり排除したりする口実にするおそれがあることです。そうい
う事例が歴史的にあったということを聞いたことがあります。

 試しに、三省堂の『大辞林』で「因果」という項目を見てみると、語義の一
つとして「現在の不幸は、前世での悪業によっているということ」と書かれて
います。この論法を恣意的に利用して、たとえば、身分、門閥、出身地、貧富
の差、男女の違いなどにより社会的に差別・迫害され困難な状況に置かれてい
る人たちに対して、「彼らの現在の不幸は、前世での悪業による報いなのだか
ら当たり前なのだ」と切り捨てるとしたらどうでしょうか。そこには、近代的
な民主主義社会を支えている公共の福祉という考え方は生まれてきません。要
するに、万人が平等に持っているはずの基本的人権がそこでは認められないわ
けです。もちろん、その人たちの前世を実際に見てきた人など誰もいないはず
ですから、「前世での悪業による報いなのだ」という断定は、何の根拠もない
でっち上げであることは明らかです。それは単に、他者を差別・迫害するのに
都合のいいように、仏教の因果論を歪曲し悪用しているだけの話にすぎず、そ
ういう行為こそが本当の悪業になるというべきでしょう。

 そういう認識に立った上で、因果の道理、つまり善因善果、悪因悪果という
厳然たる事実を冷静に見据え、普段の自己の生活を律し行動していかなければ
ならないと思います。

 「朱(しゅ)に交われば赤くなる」という諺(ことわざ)があります。その
意味するところは、三省堂の『大辞林』によれば、「人は交わる友、また環境
によって、良くも悪くもなる」ということです。それゆえ、「邪見(じゃけん)
の党侶(ともがら)には群(ぐん)すべからず」、つまり「因果の理法を否定
する誤った考えを持った人たちの仲間に入ってはならない」と説かれるのはよ
く理解できます。

 諸仏や祖師が遠い昔に因果の道理を教えてくださって、長い年月を経た今も
なおそれが尊い教えとして心ある人々に伝えられているのは、因果の教えが普
遍的な理法であるからにほかならないでしょう。
                              (つづく)


「修証義」を読む (3):無常を知ること
   2008/7/20 (日) 22:56 by 司馬拓也 No.20080720225615

 今回は、第三節です。

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 無常憑(たの)み難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已(すで)
に私(わたくし)に非(あら)ず、命(いのち)は光陰に移されて暫(しばら)
くも停(とど)め難し、紅顔(こうがん)いずくへか去りにし、尋(たず)ね
んとするに蹤跡(しょうせき)なし、熟観(つらつらかん)ずる所に往事(お
うじ)の再び逢(お)うべからざる多し、無常忽(たちま)ちに到(いた)る
ときは国王(こくおう)大臣(だいじん)親[目+匿](しんじつ)従僕(じ
ゅうぼく)妻子(さいし)珍宝(ちんほう)たすくる無し、唯独(ただひと)
り黄泉(こうせん)に赴(おもむ)くのみなり、己(おの)れに随(したが)
い行(ゆ)くは只是(ただこ)れ善悪業等(ぜんあくごうとう)のみなり。
----------------------------------------------------------------------

 「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」──これはよく知
られているように、鎌倉初期の歌人で随筆家でもあった鴨長明の『方丈記』の
冒頭に書かれている言葉です。この世が無常であることを川の流れにたとえて
表しています。「無常憑(たの)み難し」というとらえ方は、古来多くの日本
人が共有してきた人生観といっていいでしょう。

 親鸞聖人が九歳で出家する際に詠んだという歌、「明日ありと思う心のあだ
桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」にもこの世が無常であるということの実感が
にじみ出ています。また、豊臣秀吉の辞世の歌、「露と落ち露と消えにし我が
身かな 浪速のことは夢のまた夢」にも波瀾万丈の人生の果ての無常の感慨が
深く刻み込まれています。

 あれよあれよという間に世の中のあれもこれもどんどん変わってしまい、万
事変転やむことを知りません。自分自身もまた、ものの考え方・感じ方、食べ
物の好き嫌い、身体の健康状態などが年齢を重ねるうちに次第に変わっていき
ます。そのように、たとえ自分自身のことであっても、歳月とともに変わって
いくのを誰も止めることはできません。

 すでに過ぎ去った昨日という日は、たとえ国王や大臣などが躍起になって権
力にものを言わせようとも、たとえ億万長者が何億、何百億という大金を払お
うとも、それを取り戻すことは決してできません。無常の前では、俗世の地位
も権力も財産も、それをとどめるのには何の役にも立ちません。生きている今
一瞬のこの時間は、ひとたび過ぎ去ってしまえば、どんなに手を尽くしても二
度と返ってくることのない貴重な時間です。今こうしている間にも、その尊い
一瞬一瞬が流れ去っていきます。

 「本来無一物」──それが仏教における人間存在の基本認識です。本来、裸
一貫でこの世に生まれ出た人間は、人生の途上で、さまざまな衣服や金銭や社
会的地位などを身につけますが、それはあくまでもこの世にいる間の一時の預
かりものにすぎないのであって、その人本来の所有物ではありません。だから、
それらは何一つあの世に持って行くことはできません。

 私自身、百年後もこの世にいるなどということは絶対にあり得ないことです。
早いか遅いかは分からぬまでも、確実にあの世に旅立つときがやってきます。
そのときに、もしも私が所有しているものが何かあるとすれば、それはすべて
この世への置き土産です。そして、「己(おの)れに随(したが)い行(ゆ)
くは只是(ただこ)れ善悪業等(ぜんあくごうとう)のみなり」という事実を
粛然として受け止めるだけです。
                              (つづく)


「修証義」を読む (2):最勝の善身という自覚
   2008/7/19 (土) 22:42 by 司馬拓也 No.20080719224243

 今回は「修証義」第一章の第二節ですが、このあとも毎回一節ずつ読み進む
ことにします。

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 人身(にんしん)得ること難(かた)し、仏法(ぶっぽう)値(お)うこと
希(まれ)なり、今我等(われら)宿善(しゅくぜん)の助くるに依(よ)り
て已(すで)に受け難き(がた)人身を受けたるのみに非(あら)ず遇(あ)
い難き仏法に値(あ)い奉(たてまつ)れり、生死(しょうじ)の中の善生
(ぜんしょう)、最勝(さいしょう)の生(しょう)なるべし、最勝の善身
(ぜんしん)を徒(いたず)らにして露命(ろめい)を無常の風に任(まか)
すること勿(なか)れ。
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 こういう言葉に出会わなければ、この身が「最勝の生」であるとか「最勝の
善身」であるなどということはまったく思いもよらないことで、それどころか
普段はあれやこれやと幸運の足りなさを感じては、不平や不満などが頭をもた
げがちです。欲を言ってはキリがないのに、あれもこれもと際限のない思いに
とらわれ、その一方では、無用の事柄に労を費やし、つまらない遊びにエネル
ギーを使い、無益な争いごとに首をつっこみ、己の本分を忘れて日々を無駄に
過ごしていないかどうか。これはよくよく反省して毎日襟を正さないと、私の
ように怠惰に陥りがちな人間は、まさに最勝の善身を徒らにして露命(=露の
ように消えやすくはかない命)を無常(=一切の物は生滅・変化して常住では
ないこと)の風に任することになってしまうおそれがあります。

 「人身得ること難し」の自覚を持たず、流されるままに日々を無意味に送り、
矢のごとく過ぎ去る光陰にはかない命を預けて前後不覚のうちにたちまち一生
を終えるというのでは、何のための「最勝の生」であり「最勝の善身」である
のか、実に天命を知らない生き方ということになるでしょう。そうならないた
めに、私は真理(まこと)の法(のり)を学び、我が学問の師を人生の最高の
お手本として、常に精進を心がけなければならないと思っています。
                              (つづく)


「修証義」を読む (1):生きる意味とは?
   2008/7/18 (金) 16:52 by 司馬拓也 No.20080718165228

 日本で禅宗系といわれている伝統的な仏教宗派には次の三つがあります。す
なわち、臨済宗(りんざいしゅう)・曹洞宗(そうとうしゅう)・黄檗宗(お
うばくしゅう)の三宗です。

 「修証義(しゅしょうぎ)」は、これら三宗のうちの一つである曹洞宗の宗
典で、曹洞宗高祖道元禅師の「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」から文章を
抜粋して、五章三一節に整理し、1890年(明治23)に公刊したものです。

 それでは、さっそく「修証義」をひもとくことにします。第一章の第一節か
らです。

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第一章 総序(そうじょ)

 生(しょう)を明(あき)らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁(いんねん)
なり、生死の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死即(すなわ)ち涅槃(ね
はん)と心得て生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)う
べきもなし、是時(このとき)初めて生死を離るる分(ぶん)あり、唯(ただ)
一大事因縁と究尽(ぐうじん)すべし。
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 ここに書かれている「生を明らめ死を明らむるは……」という道元禅師の言
葉に初めて出会ったときに、思い出されたのは、亀井勝一郎の『黄金の言葉』
(大和書房, 1963年)という本の中で目にしたことのある弘法大師空海の言葉、
「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わ
りに冥(くら)し」です。これは空海の著作『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』
の冒頭に書かれた言葉ということなのですが、「生とは何か、死とは何か、人
が生きる意味とは何か」というのは、洋の東西を問わず、人類に課された永遠
の宿題でしょう。

 戦後の民主主義教育を受けて育った私は、西洋流のロゴス中心の思考習慣に
染まっていたせいか、長い間、この問題に対する答えを言葉によって探し、言
葉によって表現するべきものと思いこんでいました。しかし、最近になって、
そうではないということに、はたと気がつきました。

 私のような凡愚の人間が、生死に対してどれほどの認識を得ることができる
のか、ましてやそれをどうやったら言葉で明確に表現することができるのかと
なると、まったくお手上げというしかありません。ただ、言葉では表せなくて
も、年齢を重ねているうちに、自分なりに「生とはこういうものだったのか、
死とはこういうものだったのか」と折に触れてごく小さな悟りのようなものを
得ることがあり、この問題に対する心の持ち方が昔とは違ってきていることは
自覚できますし、他の人たちも同じような経験をされていることと思います。
それによって人生に対する覚悟といいますか、心構えといったものが出来てき
て、次第に腹が据わってくるこということはあると思います。結局、そうした
ことの積み重ねによって身についてくる生死の実感こそが、微力なる自分にも
実践することが可能な「生を明らめ死を明らむる」ということではないかと思
います。そして、そこに生死を超越した価値、すなわち「仏」を見いだすこと
が、今生における私にとっての大きなテーマです。
                              (つづく)


花祭り
   2008/4/8 (火) 22:12 by 司馬拓也 No.20080408221256

 今日4月8日は何の日でしょう? そう、今日はめでたい花祭り。つまり、
お釈迦さまの降誕を祝して灌仏会(かんぶつえ)という法会(ほうえ)が催さ
れる日です。多くの方々が一度はご覧になったことがあるかと思いますが、こ
の日にお寺に行きますと、境内に花で飾った花御堂(はなみどう)が作られ、
水盤に釈尊の像(誕生仏)が安置してあり、参詣者がその像の頭上に小さな柄
杓(ひしゃく)で甘茶をそそげるようになっています。

 ちなみに、「花祭り」は、英語で the Buddha's Birthday Festival; the 
Flower Festival と言います。

 今日の首都圏はあいにくの暴風雨に見舞われましたが、暦を見ますと大安の
日です。


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